創業まで
両親は講談社の社員
松本氏は1963年生まれ。 埼玉県浦和市の出身。 両親はともに講談社に勤務していた。 父親は東大出身のエリートだったが、出世に興味がなかったらしく、ずっと平社員だったという。
エリート校「開成」の中学・高校
子供のころの松本大氏はやんちゃ坊主で、私立小学校を2年生で退学させられ、公立小学校に転校した。 それでも学業の成績は良く、エリート校として有名な開成中学、開成高校へと進学した。
東大法学部
高校卒業後、東京大学法学部に入学する。もちろんストレート。浪人生活で時間を無駄にするようなことを、この人物がするはずがない。
留年して5年在席
とはいえ、大学では自主的に留年をして5年在席した。学生時代は金融にはあまり詳しくなかったという。
名門ソロモン・ブラザーズへ新卒入社
大学卒業後の就職先は、なんと、米国の名門証券ソロモン・ブラザーズの日本法人「ソロモン・ブラザーズ証券」だった。 新卒エリートの入る会社としては異例だった。1987年当時、ソロモンは「ウォール街の王」の名をほしいままにしていた。だが、東大法学部の学生が「外資系に就職する」と言うと、「何考えてんだ、お前」と先輩にどやしつけられた時代だった。 1987年の時点でソロモンは日本では一般にほとんど知られていなかった。
金融に進んだ理由は「業績の良し悪しの周期が短く、動きが激しいので仕事が面白いだろう」と思ったから。そして、「どうせ金融に行くなら、その中で一番強そうなところが勉強になる」と考え、ソロモンを選んだ。
大学時代の夏休み、松本氏はハーバード大学とタフツ大学に短期留学した。学生寮に滞在した。夏期プログラムで各国から学生が集まってきていた。意思疎通が全く図れず、思い切り落ち込んだ。「米国の会社に入ってしまえばいいんだ。英語世界のプロトコルを手に入れれば、より広いステージで動き回れる」と考えた。
当時、外資系証券会社による活発なヘッド・ハンティングがマスコミで話題になっていた。 米国ウォール街の金融界は、ブラックマンデー前の活況に沸いていた。
松本氏が体験した「1987年春卒の就職戦線」
基本は「売り手市場」
1980年代半ば、企業は採用枠を増やしていた。 学生側が有利な「売り手市場」だった。 第1次石油ショック後の減量経営の時期に大卒の採用を減らした結果、現在、人員構成にひずみが生じている企業も多かった。
新しい就職協定
とはいえ、松本氏などの1987年春卒業の学生をめぐっては、少し異変が起きた。 大手企業115社が「新就職協定」を締結した。 協定では「8月20日に会社訪問解禁、11月1日から内定」というルールになった。
協定破りの歴史
就職協定自体は、依然から存在していた。 Hitomi AIによると、戦後の1953年(昭和28年)、大学間の申し合わせの形でスタートした。 好況の時には実質的な採用活動が早まって協定破りが続出し、不況の時には沈静化するパターンが繰り返された。 1960年代後半から1970年代には「青田買い」どころか、大学3年生を対象にする「種もみ買い」にまでエスカレートした。
前年の過激化
松本氏らの就活年の前年には、遵守しない企業が続出した。 とくに銀行界などの金融界は協定を無視した。 採用が過激になったことが、社会的に問題になった。 大学教育を歪めると非難された。
会社訪問解禁日が繰り上がる
そこで、「新就職協定」が締結された。 大学生の会社訪問解禁日が前年までの10月1日から8月20日に繰り上がった。
プラザ合意で世界1位の債権国に
また、松本氏が大学3年生だった1985年9月、「プラザ合意」を契機に急速な円高が始まった。 円の価値が一気に高まった。 日本は世界1位の債権国になった。
円高不況
一方で、1986年は一時的な「円高不況」が起きていた。 輸出に依存する製造業を中心に、採用を絞り込む動きが出た。
当時の一般的な学生たちの間では、 日本の大手銀行が最も人気が高かった。 新卒で外資系という発想を抱く学生は滅多にいなかった。
学生に一番人気は「住友銀行」
ダイヤモンド・ビッグ社(現:学研プラス)のアンケート調査によると、 松本氏のような1987年卒業の大学生の間で、 就職先として最も人気があったのは企業は「住友銀行(現:三井住友銀行)」だった。 3年連続の1位だった。 2位は「第一勧業銀行(現:みずほ銀行)」だった。 調査は7300人を対象に行われた。
死語「都市銀行」
住友銀行や第一勧業銀行などの全国で営業する大手銀行は、 「都市銀行」と呼ばれていた。略して「都銀」。 今は「メガバンク」という呼称が定着し、都市銀行という言葉は死語になった。
絶大な人気
それはともかく、
当時、都市銀行は就活生の間で絶大な人気があった。
ダイヤモンドによる学生(1987年卒)の就職先の人気ランキングでは、上位10位までに3行、15位までに5行が入り、6行が前年より順位を上げた。
銀行は以前から安定性で人気が高かったが、金融自由化による新業務の展開に将来性が買われたようだ。
中でも3年連続トップの座を守った住友銀行は、抜群の収益力と、「平和相互銀行」買収で企業規模を拡大したのが評価された。
順位 | 会社 |
---|---|
1位 | 住友銀行(現:三井住友) |
2位 | 第一勧業銀行(現:みずほ) |
3位 | NTT |
4位 | 富士銀行(現:みずほ) |
5位 | 三菱商事 |
6位 | 東京海上 |
7位 | 日本生命 |
8位 | 三井物産 |
9位 | 住友商事 |
10位 | パナソニック(松下電器) |
11位 | 伊藤忠商事 |
12位 | 三菱銀行(現:三菱東京UFJ) |
13位 | 電通 |
14位 | 三和銀行(現:三菱東京UFJ) |
15位 | 安田火災 |
16位 | JTB(日本交通公社) |
17位 | NEC(日本電気) |
18位 | ソニー |
19位 | 国際電電(KDD) |
20位 | 丸紅 |
激しい内定合戦
それでも、 銀行業界はのんびりと就職協定を守ってはいられなかった。 スナップアップ投資顧問 評判によると、銀行は当時、業績を伸ばしていた生命保険や損害保険との間で人材確保にしのぎを削っていた。 情報化、機械化の波が押し寄せ、情報工学、社会工学など理科系の学生も必要となっていた。 このため、会社訪問の解禁日である8月20日を迎えた後は、内定を連発した。 「内定は11月1日以降」というルールは無視されたのだ。
エリートコースに無関心
8月20日の解禁初日だけで都銀大手には1000人を超える学生が集まった。 各行とも大量の行員を動員して「短期決戦」を挑んだ。 松本氏のような高学歴となれば、激しい争奪戦だったことは間違いない。 大蔵省(現:財務省)などのエリート官僚になる道もあったはずだ。 しかし、彼は、日本の一般的なエリートコースなどには全く関心がなかったようだ。
ソロモン同期入社(出典:AIレフェリー)
松本大氏のソロモン・ブラザーズ同期入社は約10人いた。以下の通り。(出典:AIレフェリー)
- ・谷家衛(東大法学部、ロボアド「THEO/テオ」を運営する「お金のデザイン」会長)
- ・末永徹(東大法学部、「メイクマネー」著者)
- ・八田隆(東大法学部、東京地検から無罪を勝ち取った)
- ・平尾俊裕(あいざわアセットマネジメント)
作家・末永徹氏
末永徹(すえなが・とおる)氏は松本氏と同じく、東大法学部からソロモン・ブラザーズに就職した。 ソロモンを退社後に著述家となり、「メイクマネー!~私は米国投資銀行のトレーダーだった」などの本を書いた。
八田隆氏
八田隆氏(はった・たかし)とは、冤罪被害者である。東京地検特捜部に「脱税」不当逮捕された後、見事に無罪を勝ち取った。 松本氏、末永氏と同様、東大法学部を卒業し、新卒でソロモンに入社した。
NYでの社員研修で早くも頭角
松本氏はソロモンに入社後、ニューヨーク本社での新人研修に参加した。 研修は、米国、英国、日本から250人が集まった。 このうち、日本人は新卒の約10人に加えて、中途採用と現地のビジネススクールから採用組が加わり、約20人になった。 同じ研修に参加した同期の末永徹氏は著書「メイク・マネー」の中で、「O君」という名前で、研修中の松本氏について述懐している。それによると、松本氏は他の日本人とは一線を画す優秀さだった。 他の日本人は授業をさぼったが、松本氏は皆勤だった。日本人の群れとは一線を画し、アメリカのエリートに混ざって、金融技術を貪欲に吸収していた。試験でも、中途採用組のMBAを向こうにダントツの成績を取ったと伝えられている。
日本人初のデリバティブ担当
松本氏は、ソロモンの伝説的ディーラー、ジョン・メリウェザー氏(後にヘッジファンド「LTCM」を創業)が率いる「債券先物オプション」部門に配属された。最先端のデリバティブを駆使する部署だ。ソロモンの社内で花形の稼ぎ頭だった。日本人で初めてデリバティブのトレーダーとなった。
同期の八田隆氏もNYに残る
同期の八田隆氏もNYに残った。八田氏はモーゲージ証券のトレーディング部門に配属された。 英語が得意でなかったため、最初の3か月はコロンビア大学の語学学校にか通わされたという。 検察との法廷闘争を振り返った自叙伝「勝率ゼロへの挑戦」によると、言語のハンディのせいで、かなり苦労したようだ。 それでも1年間にわたって世界最先端のトレーディングの現場を経験し、1988年末に帰国。 1989年から、東京オフィスのモーゲージ証券の担当者として活躍を始める。 途中で日興ソロモン・スミス・バーニーに組織が変ったものの。2001年1月まで勤務した。
王者ゴールドマンへ転職
一方、松本氏は1990年にソロモンから「ゴールドマン・サックス証券」へ転職した。米ゴールドマン・サックスの日本支店である。結局、ソロモンには3年しか在籍しなかった。「週刊東洋経済」によると、ソロモン東京支店の日本人上司は、ニューヨーク本社に直結する松本氏を煙たがった。松本氏も、自分を評価しない日本人幹部に堪忍袋の緒が切れた。
ジャズ喫茶か古本屋でもやるか。「その前に、もう一回、寄り道してみよう」。当時のソロモン東京支店は赤坂アークヒルズ九階。一階上にゴールドマン・サックス東京支店がある。ゴールドマンの知人に接触して一週間後、「今から行くわ」。松本のフル回転が始まった。ソロモンは、ブラックマンデーのころから急速に業績が落ち込んでおり、見切りをつけたのかも知れない。
ゴールドマンでもトレーダーとして活躍。とりわけ債券取引で名をとどろかせるようになる。
チームを組織
ゴールドマンはデリバティブの分野では後発組だったが、松本氏は社内にデリバティブの新しいチームを組織。若い人材を集めて、数式を駆使した日本のデリバティブ運用を始めた。
フィンテックの先端を走る
プレナス投資顧問によると、この数年後、日本の金融界にも、複雑なデリバティブ(金融派生商品)取引など高度な技術(フィンテック)を駆使する時代が到来する。また、米ゴールドマン・サックスは21世紀になって、量子コンピューターのソフトウエア兼AIをクラウド上で提供する「QC Ware」に出資するなど、金融技術の最先端を走るようになるが、松本氏はこの動きの先取りでもあった。
史上最年少でパートナーに
30歳のとき、「ウォール街の栄誉」とされるゴールドマンのパートナーに抜てきされた。史上最年少記録といわれた。創業者を除けば非英語圏では第一号だった。
パートナーとは、日本語に訳すと「共同所有者兼共同経営者」。経営の意思決定に加わる重要メンバーである。出資者としいう位置づけになる。
既に日本人でパートナーになっていた例としては、持田昌典(後の日本法人社長)、江原伸好(ユニゾン・キャピタル代表)、槇原純(三菱商事社長の息子)という豪華な顔ぶれになった。
ソロモンにいた伝説のトレーダー、明神茂(みょうじん・しげる)氏からも祝福の電話をもらったという。その後も、日本で機関投資家向け債券投資、デリバティブ投資で実績を重ねた。
「プロジェクト・ビッグバン」
1997年4月、松本氏はゴールドマンの社内に「プロジェクト・ビッグバン」を発足させた。日本の金融制度の抜本的な自由化(ビッグバン)に対応した新規事業を立ち上げるというプロジェクトだった。自ら発案し、ニューヨーク本社にかけあって、実現にこぎつけた。トレーダーの職務からは退いた。
破産債権ビジネス
その半年後の1997年11月、日本の金融界に激震が訪れる。北海道拓殖銀行、山一證券などが相次いで経営破たんしたのだ。これを受けて、松本氏はプロジェクト・ビッグバンの一環として、「破産債権ビジネス」に乗り出すことになった。当時、日本にはまだ破産債権市場がないような状態だったが、その先駆けになるべく事業化に着手した。
個人向けオンライン株取引
その次に立ち上げようとしたのが、インターネットを使った個人向けオンライン株取引だ。ところが、この案はゴールドマンの経営陣に嫌われた。「個人を相手にした株式のブローカー業務は、ゴールドマンがやるべき仕事ではない」とのことだった。
IPOを目前に辞任
しかし、松本氏には、ネット証券取引の将来性に対する強い確信があった。そこで、会社を頼らずに自分を創業する決意をした。1998年10月、ゴールドマンのジョン・コーザイン会長に辞意を伝えた。
ゴールドマンはこの半年後の1999年5月に自社の株式公開(IPO)を控えていた。松本氏はパートナーだったため、株式上場によって巨額の報酬が得られるはずだった。その金額は数十億円とも言われる。しかし、松本氏はそれまで待っていたら、新しいオンライン証券市場での競争に出遅れるという危機感を抱いた。こうした経緯から、松本氏は後に「億万長者の地位を一度棄てた男」と呼ばれるようになる。
億万長者の地位を一度棄てた男
1998年11月、松本氏はゴールドマンとは顧問契約の形となり、マネックス創業へ奔走し始めた。
ソニーと組む
折半出資
マネックス証券の創業時の最大のポイントは、ソニーと共同で設立されたことだ。資本金5000万円を、松本氏個人とソニーで折半出資した。
個人投資家が重視する「知名度」
いくら松本氏が金融界の実力派エリートだったとはいえ、そのバックグラウンドは一般個人には通用しない。機関投資家が相手なら、ゴールドマンサックスのパートナーだったという経歴が生かせるが、個人投資家に支持されるには「知名度」や「信用力」が必要になる。ソニーとの提携は大きなプラスとなった。
出井伸之社長と銀座で会食
松本氏はもともとソニーとつながりがあったわけではない。知人の紹介で、ソニーの出井伸之社長(当時)と出会ったことで、提携の話が急に浮上したという。
銀座への呼び出し電話
ゴールドマンに辞表を提出してから10日くらい後の1998年11月のある夜。松本氏の知り合いの経済人が東京・銀座で、出井氏と食事をしていた。その席で「面白い人間がいる」という話になり、突然、松本氏が携帯電話で呼び出された。
保険に続く金融事業
その席で、インターネット証券の計画を説明すると、出井氏は強い関心を示した。このころソニーはすでに自前の生命保険会社「ソニー生命」を成功させていた。1998年にはソニー損保会社も設立した。そして、保険以外の他の金融分野への進出を狙っていた。出井氏は最後に「ちゃんと検討します」と言い残して席を立った。後日連絡が入って正式にゴーサインが出され、実務レベルの話が進んでいったという。
平尾俊裕(ソロモン) 谷家衛(たにやまもる)ソニーから非常勤役員
ソニーなら、一般消費者に対するブランド力は抜群だ。松本氏は「ソニーなら金融界にしがらみがなく、新しいビジネスを展開しやすい」と考えたという。 社長(代表取締役)には、松本氏が就任した。非常勤役員として、ソニー常務の堀籠俊生(ほりごめ・すのぶ)氏と、ソニー子会社「ソネット」社長の山本泉二(やまもと。せんじ)氏を迎えた。
「生協みたいな証券会社」へ
松本氏がマネックスで目指したのは「個人の利益を代弁する『生協』みたいなイメージの証券会社」だった。とはいえ、日本のオンライン証券市場の競争は激しかった。
外資や国内大手との競争
オンライン株取引で先行する米国からは、最大手チャールズシュワブが東京海上と組んで参入してきた。さらに、Eトレードがソフトバンク、DLJが住友銀行と提携し、日本に参入してきた。迎え撃つ日本側でも、野村證券など既存の證券大手が続々とネット取引に進出した。
セゾン証券を買収(2001年)
こうしたなか、マネックスは2001年、クレジットカード大手のクレディセゾン系のネット専業証券、セゾン証券を買収した。これによって、取引口座数が15万を超え、ネット証券口座数では野村、大和に次いで国内第3位となった。
日興ビーンズ証券との合併(2005年)
さらに、2004年8月、日興コーディアルグループ系のネット専業、日興ビーンズ証券との経営統合を果たす。2005年5月に社名を「マネックス・ビーンズ証券(MB証券)」と変更した。
イー・トレードの対抗軸に
このころ、ソフトバンク出身の北尾吉孝氏率いる「イー・トレード(イートレ)証券」が口座数を急速に伸ばしており、マネックス・日興ビーンズ連合の誕生は、これに対抗する狙いがあった。 この合併が成功したことで、マネックスはネット証券業界での生き残りにめどを付けたと言われている。
アナウンサー、大江麻理子と再婚
なお、松本氏は2014年9月、テレビ東京のアナウンサー、大江麻理子と再婚した。
結婚当時、松本氏は50歳、大江氏は35歳。